ネズミの立場からワニの死を考える

 

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 「100日後に死ぬワニ」が遂に完結しましたね。間もなく死ぬと分かっているワニの何気ない日常を追っていく体験は、多くの人に感動を与えた100日間になりました。

 

 ワニの話が私たちの心に響いたのは、「死」という永遠の別れを題材にして、それをカウントダウン方式によってリアリティを高めていく演出があったからでしょう。死ぬことが分かっているから、ワニの日常をかけがえのないものと思え、何か良いことが起こると良かったねと嬉しくなり、悲しいことがあれば大丈夫だよと声をかけてあげたくなる。日本中がワニの1日1日を暖かい感情を持って観察し、その死を見届けました。これが例えば「100日後に結婚するワニ」とかハッピーエンドが予想されていたならば、今回のようなムーブメントは起こっていなかったのではないかと思います。

 

 実は昨今のポジティブ心理学では、「死」のようなネガティブな事象を研究対象とする潮流があります。これまでは当該分野の黎明期というのもあって、ポジティブな感情や経験、関係性などに焦点が当たり、私たちの実生活で避けることができない様々な困難についてはあまり考慮されてきませんでした。例えば、大切な人を失うこと、大病を患うこと、犯罪に遭うこと、重度の障害を持つこと、災害に見舞われ生活が一変すること、私たちは生涯様々な困難を経験するので、それらを乗り越えながらウェルビーイングを達成することが必要になっています。黎明期を終えつつあるポジティブ心理学は、そういったネガティブな事象にも目を向けて、総体としてウェルビーイングを実現することが大切だとうたっているのです。

 

 これに関連する理論の1つに、ポスト・トラウマティック・グロースというものがあります。これはトラウマとなるような辛い経験をした人は、人間としてこれまで以上の成長を遂げる可能性があるという考え方です。トラウマがなかったときよりどうして成長できるのか。それは例えば、大病を患った人ほど自分の身体を意識して健康に気をつける、親友を亡くした人ほど周囲の人たちへ感謝の気持ちを抱く、辛い経験を神様が与えてくれた試練と考えてその意味を理解する(make sense)、ことなどが指摘されています。

 

 このように私たちは辛い体験を経ることによって、人生の大切さだったり、周りの人たちへの感謝の気持ちを養って、本当に大切なことのためにリソースを割き、同じような境遇にある人たちに対して優しくなれるのです。皆さんもワニの死を経験したから成長できた部分がどこかあるのではないでしょうか。

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 しかしながら、私たちが体験した感動や気づきは(そのインパクトに応じて)時の経過とともに風化してしまうのも事実です。私たちの考え方とか価値観に大きな影響を与えて人間としてひと回りもふた回りも成長させてくれるのは、ワニの話のように感情を揺さぶるストーリーだと個人的に思っていて、それを実生活と上手に結びつけていくにはどうするのが良いかというのを大学の頃からぼんやり考えていました。

 

 その中で、最近はSNSの役割に注目しています。TwitterInstagramでは様々な境遇の人たちが近況をアップデートしていて、中には日々大変な思いをされている方がいることに気づかされます。私がフォローしている方には、例えば、若くして癌で奥さんを亡くして残された幼いお子さんを育てる旦那さん、先天性障害で先1年生きられるか分からない赤ちゃんのお母さん、余命宣告を受けて人生の終幕に向かっている方などがいて、そういった人達の日々の暮らしや感情の吐露などを追っていくことで、自分自身の気が引き締まり、また同じように大変な境遇にある人達の力になりたいという感情が沸き立ちます。

 

 ワニは車に轢かれそうなヒヨコを庇っての事故死という最後でしたが、その優しさが招いた死を知ることになるネズミは、これからワニの死を克服していく大変辛い時間が待っています。もともと作者の「きくちゆうき」さんは過去に亡くなられた友人をワニと見立て、またご自身をネズミとしてこの話を描かれたとのことで、きっとご本人はネズミがこれから行っていくように友人の死を乗り越える辛い時間を経験されたのだと思います。そして、その経験が死について深く考える機会となって、周りの人の感情に訴えかける作品を誕生させるに至ったのでしょう。

 

 辛いことは起こらないのが一番ですが、そうもいかないのが人生です。ネズミのように困難なことを時間をかけて乗り越えていきながら、悔いのない、そして人を思いやれる優しい人になりたいなと思います。

 

 

※ ポストトラウマティックグロースは全ての人に起こるとは限りません。トラウマによりPTSD心的外傷後ストレス障害)を発症する人も多くいます。

SNSなどを通じて、大変な思いをされている方達と接する際に大切だなと思うのは、同情心(sympathy)ではなく共感心(empathy)を持つということです。同情にはどこか独りよがりのエゴがあって、必ずしも相手の心境を思っていない場合があるので注意したいです。

※ 他者の辛い経験に接することで自身のトラウマ体験を想起させるリスクがあります。また心理的な負担をかける懸念もあり留意が必要です。