ポジティブ心理学2.0と禅と修論と

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 自分や他者、社会の幸せについて考えるための学問がポジティブ心理学ですが、殊に自身の幸せという観点では、幸福を追求し過ぎると幸せになれないというパラドックスが指摘されています。

 

 これまでの研究で人々のウェルビーイング向上に繋がる様々な要素が提案されており、じゃあそれらをそのままフォローしたら良いんじゃないかとも思えるのですが、実はそう簡単な話でもないのです。

 

 その理由の1つは、「幸せ」を過剰に意識しすぎることで、幸せにならなければいけないというプレッシャーを感じてしまうことにあります。自分らしくありのままに生きることはウェルビーイングにとって大切だからといって、「自分らしくありのままに生きる」ことを強要されると本末転倒です。そして、それらの自身の「幸せ」に必要だと思うことに上手く対応できないと、自分は不幸に違いないと思い込んでしまう恐れもあり、結果として幸せからは遠ざかってしまうのです。

 

 なので、幸せは程よく適度に追い求めるのが良いというのが1つの教えでもあります。

 

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 この点について、異なる角度から捉えている方と話す機会がありました。それは、修論執筆のためインタビューさせて頂いた禅の僧侶の方です。

 

 修論のリサーチクエスチョンは、ウェルビーイングを構成する1つの要素である「meaning in life」(人生の意味)に対し、禅はどのように向き合っているのか、協力いただいた禅僧の方達の経験や生活への影響などを個別具体的に深掘りして、質的に考察するというものです。

 

 一般的に自身の「meaning in life」(人生の意味)に得心することは容易ではなく、どれだけ探求したとしても納得いく答えを見つけられないこともよくあります。冒頭の考え方に照らせば、そんなとき焦燥感を抱くのは良くなくて、いつかは見つかるだろうと気楽に構えているのがベターなんですが、今回インタビューを通して見えてきたものはまた異なる考え方でした。

 

 その禅僧の方がおっしゃっていたのは、人生に意味はないということ。そして人生は無意味だけれど、ただ生きているだけで私たちの存在は十分価値がある、それを日々自覚して生きているということです。

 

 私たちがこの世に生を受けたことが既に奇跡であって、その命の価値を自覚することができれば、人生の意味の有無にかかわらず、私たちは毎日の生活に幸せを感じることができます。それは、日々のあらゆることに感動して、関わる全ての人たちに感謝し、そして同じく奇跡的な生を受けた他者に尊敬の念を抱くということでもあります。実際に、このような生き方を実践されている今回インタビューに協力いただいた方々は皆さん高いウェルビーイングを感じられていました。

 

 この考え方の素晴らしいところは、自分の生活や感情にポジティブに働く事象にだけでなく、辛いことや苦しいことなどネガティブなことも受け入れて、そこに価値を感じようとする姿勢だと思います。また、SNSの普及によって多くの人と自分を比較できるようになり、それが自分の幸福尺度に大きな(そして多くはマイナスの)影響を与える中で、他者との比較ではなくて自分基準で物事を捉えることができる点も非常に効果的だと思います。

 

 どこかニーチェニヒリズムと超人思想に通ずるところがあるようにも思いますが、私たちの人生に対する見方を変える、いわば私たちのOSをアップデートする作業と言えるでしょう。

 

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 ポジティブ心理学は、これまで欧米的価値観に基づいて研究が進んできました。その中で、「meaning in life」(人生の意味)の重要性を提唱してきたのに対して、今回のリサーチでは"脱意味"に伴うウェルビーイングについてヒントが得られたように思います。

 

 特に最近は、欧米だけでなくアジア的価値観も包含して、より普遍的で応用的な研究を進めていこうという潮流があり、「ポジティブ心理学2.0」と呼ばれています。日本でもこの学問に興味を持つ人が増えて、日本からのインプットが進むことによって、世界の幸せの総量が増えていくと良いなと思います。