【書評】夜と霧(ヴィクトール・フランクル)

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 巷ではブックカバーチャレンジなるものが流行ってますね。特に私はバトンを受けとった訳でもないんですが、勝手にコロナ時代にオススメしたい一冊として「夜と霧」を紹介したいと思います。著者のヴィクトール・フランクルポジティブ心理学においても有名人で、「幸せ」の重要な要素の1つである"Meaning in Life"に関する論文では必ずと言っていいほどリファーされる人物です。そして、本著はそのコンテクストで代表格とされる一冊になります。 

 

 「夜と霧」は、ナチス強制収容所を生き延びた心理学者であるフランクルが、自身の経験を基に被収容者の心理状態を描写・分析した、世界的なベストセラーです。ホロコーストに苦しんだ彼らとコロナに苦しんでいる私たち、苦難のときに人間は何を思うのか、私たちが彼らから気づかされることが多くあると思います。

 

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 強制収容所は、あらゆる快楽がないのは当然として、最低の衛生環境と食生活、過酷な労働に極寒の自然環境、そして不条理な暴力と処刑に日常的に晒される、特殊な世界です。こんな場所が70数年前に実在していたというのは本当に信じられないのですが、フランクルは、そこでの被収容者達について、感情を喪失し、ただ自分が生き延びるためだけに行動する非情な生き物だったと指摘します。

 

 ナチス関連の映画作品を見ると、ただただ虐げられる弱者としての被収容者像が描かれていますが、実際には権力側に付いて暴力を振るう者、自分のために他者を犠牲にする者、困っている人に見向きもしない者など、(考えたら当たり前かもしれませんが)どうしても自己中心的な人間になってしまっていたようです。

 

 本著で特に私が印象的だったのは、そんな特殊環境下においてなお、被収容者が心を救われた3つのもの(宗教、自然、愛)、そして人間としての尊厳を保った数少ない人達に共通する「生きる意味」への理解についての記述です。今回はここを中心に書きたいと思います。(※以下、本著からの抜粋あり)

 

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 被収容者達は、生き延びるために必要な最低限のことしか関心を払わないけれど、例外的に彼らを惹きつけたもの、それが宗教でした神への信仰心を相当厚くし、その教えに心を打たれて、心身ボロボロになりながらも日々のささやかな祈りや礼拝を習慣にしていたようです。もう1つの例外は政治でしたが、これは大戦の戦局を通じて解放される日を夢見ていたのでしょうから納得しやすいと思います。一方で政治と比べると、宗教や信仰が持つ力というのは、特に日本人には理解し難い部分もありますが、いつ死ぬか分からない過酷な状況でも絶対的な精神的安寧をもたらしてくれる唯一無二のものなのです。

 

 宗教というと日本ではカルトの方が目立ってしまって半ばタブー視されていますが、もっと私たちの生活と身近なところにあっても良いのにと個人的に思っています。例えば、親の形見を大事にして、それが見守ってくれていると安心する気持ちは、宗教と同じスピリチュアリティです。そういった信仰には、他では決して代替できない価値があると思いませんか?

 

 また、収容者たちの現実から目を背ける態度は自己の内面を深める方向に向かい、その結果、憔悴しきった状態であっても、あるいはそういった状態だからこそ、自然の雄大さ・偉大さに心を奪われる強烈な体験をしたとあります

ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃せまいという、ただそれだけのために。(中略)わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

 

 自然の美しさに心を奪われる経験は、誰もが1度は身に覚えがあるのではないでしょうか。この自然の如何とも形容し難いエネルギーは、ナチス収容所で苦しむ人たちの心にも強く響いたようです。自然は宗教同様に人間を超越したものであり、ポジティブ心理学でいう「自己超越(Self transcendence)」な存在です。そうした存在との接近が精神的充足をもたらした好事例です。

 

 そして、フランクル自身、収容所の辛い環境下で面影が浮かんた妻の存在、記憶の探索や想像で行う妻との対話に心が救われる経験をして、人間が到達できる最高の感情として「愛」の価値を認めます。フランクルと奥さんはアウシュビッツに送られて間も無く会えなくなり、その後奥さんはホロコーストで亡くなってしまいます。フランクルは解放後にその事実を知るわけですが、お互いの生死すら分からず顔を合わせられない状況でも、妻のことを思い出してはその愛から安らぎを得ていたのです。

収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。 

  

 宗教・自然・愛、いずれも私たちがただ日常生活を送っているだけではその価値になかなか気づけないものです。逆説的ではありますが、強制収容所という最悪の環境だからこそ、人間にとって高尚な価値に触れて、心の底からの安らぎを感じることができたのでしょう。

 

 これはコロナ危機に苦しむ私たちにとっても同様の気づきを得るチャンスだと思っています。これまで私たちを満たしていた快楽がなくなった今だからこそ、本当に価値あるものが何なのかを考える良い機会かもしれません。

 

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 また、多くの被収容者たちが非情になって自己中心的に変わっていく中でも、命が尽きるその時まで自分を見失わなかったわずかばかりの人たちがいたと、フランクルは述べています。 

 

 その両者を分けたもの、それは「生きる意味」でした。前者の人たちがただ生きしのぐことだけを考えていたのに対し、後者の人たちは生きることの意味、苦しみに耐える意味、そして死ぬことの意味を理解していたことが、どんな状況でも自分自身であり続けられた理由なのだと氏は分析します。

最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるわけではないからだ。

 

 しかも、これらの生きる意味を理解した被収容者たちは、その他多くの被収容者はもちろん、ごく普通の生活を送る「外の世界」の人達以上に、人間として崇高であったと言います。ここに「生きる意味」と向き合うことの大切さを感じます。現代のポジティブ心理学者達が指摘するように、”Meaning in Life”は私たちが幸せになるための重要な要素なのです

外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごくふつうのありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。

 

 多くの被収容者達が「死にたくない、何がなんでも生き延びたい」と考えたのは人間が死に対して恐怖心を持つ以上、当たり前の感情だと思います。もし私も彼らと同じ境遇に置かれたなら、おそらく同じように感じたでしょう。ただ、平和な時代に生まれたからこそ、落ち着いて客観的に彼らの生き方を想像してみると、死の恐怖のみに動かされた者に最後残るのは絶望とか虚無なのかもと思ってしまいます。

 

 特に強制収容所では、運だけが生死を左右したと言います。どれだけ「死にたくない」と思っても死は避けられず、実際に多くの被収容者が命を落としました。そんな環境で、恐怖心だけを持っていた者と自尊心を抱いた者、両者の生き様と死に様には大きな違いがあったでしょう。

 

 コロナ危機の今、果たして私たちは自尊心を保てているでしょうか。自分さえ危機を乗り越えられればと思って行動していないでしょうか。「生きる意味」を見つけるのは簡単なことではありませんが、フランクルはそのためのヒントを授けてくれています。彼の意見を参考にしつつ、この時代だからこそ考えてみたい問いです。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

 

(参考1)

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(参考2)「人生の意味」について関連記事

日本に帰ってきました

 ロンドンがロックダウン秒前か?というタイミングの3月中旬、いよいよやばいことになりそうだと予感して急遽日本に帰ってきました。日本政府が欧州からの入国者に特別検疫(2週間の自主隔離と公共交通機関の利用自粛)を課す前の到着でしたが、念のため東京のホテルで自主隔離して、今は妻と息子(乳児)が暮らす住まいに移ってきています。

 

 日本に戻ってしばらくすると、大学から今後の授業は全てオンラインに切り替わると正式な通知があったので、このままロンドンに戻ることなく、日本で授業を受けながら修論を書いて卒業を目指すことになりそうです。本当であれば7月までキャンパス授業があり、勉強のほかにも、イギリスでの生活や周辺国の旅行など色々計画していたので残念ではあるのですが、最早そうも言ってられる状況ではないので、今は気持ちを切り替えています。(と言いつつ、ずっと行きたかったアウシュビッツに遂に行けるというまさに直前で全てキャンセルになってしまったのが心残りなのですが。。)

 

 一方で良いと思えることもあります。昨年末に生まれた子を日本に残してロンドンに渡っていましたが、これで日本で子育てを楽しみながら勉強できる環境になりました。子どもの成長は本当に早いので、その大事な時期を一緒に過ごせるのは留学と同等、若しくはそれ以上に貴重な経験だなと思っています。また、修論も日本でリサーチする予定だったので、当初計画よりじっくり時間をかけられそうです。

 

 環境は変わってしまいましたが、留学生として勉強に集中する意識は緩めることなく、引き続き励みたいと思います。

 

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 最近はメディアで「withコロナ」や「afterコロナ」という言葉を目にするようになり、コロナが私たちの生活や時代の変化を象徴する事象になることが共通認識になりつつあります。今なお続く人命や経済的な危機は、過去二度の大戦がそうであったように、今後の私たちの生活や社会のあり方を見直すきっかけとなり、既に何らかの変化を感じとっている人もいることでしょう。

 

 その中で、私はポジティブ心理学は今後の社会を見通すヒントになるのではないかと思っています。これまでの経済成長偏重主義やマテリアリズムな考え方に限界が見え始めて(兆候は既にありましたが明らかな形で可視化され)、今後新しいイデオロギーが誕生することになるでしょう。そのキーワードの1つに、個人や社会のウェルビーイング向上が挙げられ、私たちがどういった働き方・生き方をするのが良いか考えるにあたり、ポジティブ心理学は良い材料を提供できるのではないかと思います。

 

 コロナ禍における私たちは、外出自粛によってこれまで以上に家族や友人の大切さに気付き、医療現場で働く人たちへの感謝や周囲の人たちと支え合うことの重要性を学んでいます。そして感染症に対して如何に社会が脆弱かを知り、政治参加の必要性を痛感したり、新たな感染症の発生や災害などのリスクを低減させるために自然と共生する社会の実現が不可欠との認識を強くしています。また、テレワークなどの働き方が時間的なゆとりを生み、一人ひとりが自分自身のために時間をどう使うか考え直す機会にもなるでしょう。

 

 これまで盲目的に経済成長を目指してきた私達に対して、コロナは経済と命を天秤にかける形で、真に大切なものが何かを問いただしています。この問いにしっかり答えられるように、私たちが今から真剣に考えていくことが重要なんだと思います。

ネズミの立場からワニの死を考える

 

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 「100日後に死ぬワニ」が遂に完結しましたね。間もなく死ぬと分かっているワニの何気ない日常を追っていく体験は、多くの人に感動を与えた100日間になりました。

 

 ワニの話が私たちの心に響いたのは、「死」という永遠の別れを題材にして、それをカウントダウン方式によってリアリティを高めていく演出があったからでしょう。死ぬことが分かっているから、ワニの日常をかけがえのないものと思え、何か良いことが起こると良かったねと嬉しくなり、悲しいことがあれば大丈夫だよと声をかけてあげたくなる。日本中がワニの1日1日を暖かい感情を持って観察し、その死を見届けました。これが例えば「100日後に結婚するワニ」とかハッピーエンドが予想されていたならば、今回のようなムーブメントは起こっていなかったのではないかと思います。

 

 実は昨今のポジティブ心理学では、「死」のようなネガティブな事象を研究対象とする潮流があります。これまでは当該分野の黎明期というのもあって、ポジティブな感情や経験、関係性などに焦点が当たり、私たちの実生活で避けることができない様々な困難についてはあまり考慮されてきませんでした。例えば、大切な人を失うこと、大病を患うこと、犯罪に遭うこと、重度の障害を持つこと、災害に見舞われ生活が一変すること、私たちは生涯様々な困難を経験するので、それらを乗り越えながらウェルビーイングを達成することが必要になっています。黎明期を終えつつあるポジティブ心理学は、そういったネガティブな事象にも目を向けて、総体としてウェルビーイングを実現することが大切だとうたっているのです。

 

 これに関連する理論の1つに、ポスト・トラウマティック・グロースというものがあります。これはトラウマとなるような辛い経験をした人は、人間としてこれまで以上の成長を遂げる可能性があるという考え方です。トラウマがなかったときよりどうして成長できるのか。それは例えば、大病を患った人ほど自分の身体を意識して健康に気をつける、親友を亡くした人ほど周囲の人たちへ感謝の気持ちを抱く、辛い経験を神様が与えてくれた試練と考えてその意味を理解する(make sense)、ことなどが指摘されています。

 

 このように私たちは辛い体験を経ることによって、人生の大切さだったり、周りの人たちへの感謝の気持ちを養って、本当に大切なことのためにリソースを割き、同じような境遇にある人たちに対して優しくなれるのです。皆さんもワニの死を経験したから成長できた部分がどこかあるのではないでしょうか。

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 しかしながら、私たちが体験した感動や気づきは(そのインパクトに応じて)時の経過とともに風化してしまうのも事実です。私たちの考え方とか価値観に大きな影響を与えて人間としてひと回りもふた回りも成長させてくれるのは、ワニの話のように感情を揺さぶるストーリーだと個人的に思っていて、それを実生活と上手に結びつけていくにはどうするのが良いかというのを大学の頃からぼんやり考えていました。

 

 その中で、最近はSNSの役割に注目しています。TwitterInstagramでは様々な境遇の人たちが近況をアップデートしていて、中には日々大変な思いをされている方がいることに気づかされます。私がフォローしている方には、例えば、若くして癌で奥さんを亡くして残された幼いお子さんを育てる旦那さん、先天性障害で先1年生きられるか分からない赤ちゃんのお母さん、余命宣告を受けて人生の終幕に向かっている方などがいて、そういった人達の日々の暮らしや感情の吐露などを追っていくことで、自分自身の気が引き締まり、また同じように大変な境遇にある人達の力になりたいという感情が沸き立ちます。

 

 ワニは車に轢かれそうなヒヨコを庇っての事故死という最後でしたが、その優しさが招いた死を知ることになるネズミは、これからワニの死を克服していく大変辛い時間が待っています。もともと作者の「きくちゆうき」さんは過去に亡くなられた友人をワニと見立て、またご自身をネズミとしてこの話を描かれたとのことで、きっとご本人はネズミがこれから行っていくように友人の死を乗り越える辛い時間を経験されたのだと思います。そして、その経験が死について深く考える機会となって、周りの人の感情に訴えかける作品を誕生させるに至ったのでしょう。

 

 辛いことは起こらないのが一番ですが、そうもいかないのが人生です。ネズミのように困難なことを時間をかけて乗り越えていきながら、悔いのない、そして人を思いやれる優しい人になりたいなと思います。

 

 

※ ポストトラウマティックグロースは全ての人に起こるとは限りません。トラウマによりPTSD心的外傷後ストレス障害)を発症する人も多くいます。

SNSなどを通じて、大変な思いをされている方達と接する際に大切だなと思うのは、同情心(sympathy)ではなく共感心(empathy)を持つということです。同情にはどこか独りよがりのエゴがあって、必ずしも相手の心境を思っていない場合があるので注意したいです。

※ 他者の辛い経験に接することで自身のトラウマ体験を想起させるリスクがあります。また心理的な負担をかける懸念もあり留意が必要です。